暮らしと移動 一 事故財布を忘れて、それでもタイへ発った。カード1枚と現金3万円のバンコク1ヶ月
2026年3月14日、8時20分。成田空港の保安検査を抜けた先で、私は鞄の中を探っていた。

01(イメージ)成田の搭乗口までは、だいたいこういう通路だったと思う。歩いた記憶だけがうっすら残っている。
小さなバッグの中に、無い。いつも持ち歩いているリュックをひっくり返しても、無い。床に広げたスーツケースの奥まで手を入れても、無い。同じポケットを、何度も指で確かめた。何度やっても、同じだった。
財布が、ない。クレジットカードもキャッシュカードも現金も、全部その中に入っていた。移住の前に「命綱」のつもりで作った、唯一のプラチナカードも入っていた。
朝6時に起きて、朝食を食べて、7時50分にここへ着いた。そこまでは、何も起きていなかった。
頭の中が真っ白になって、次に何をすればいいのかが、しばらく出てこなかった。
え、これ終わった、と思った。
今日からタイで暮らすはずだった
今日はただの旅行ではない。タイへ移住する初日だった。ここまで準備してきた。今日を境に、暮らす場所も、日々の動き方も、全部変わるはずだった。
前の晩は、成田のホテルに泊まっていた。チェックインの行列を無視して、フロントの椅子にしばらく座っていた。乗る便の搭乗は、9時15分から始まる。
パスポートだけは、財布とは別のポケットに入っていた。最初のホテルの9泊分は、出発の前にもう決済が済んでいた。1ヶ月のうちの、9泊だった。
スマホもパソコンもPocket3も、充電器も、鞄の中にちゃんとあった。仕事の道具だけは、無事だった。
パスポートがある。だから、私はタイに入国すること自体はできる。問題はその先だった。ホテルまでどうやって行くのか。ご飯はどうやって食べるのか。財布が無いまま知らない街に降りる自分を、この時点ではまだ具体的に想像できていなかった。どれにも答えられなかった。
次に日本へ戻れるのは4月15日だった。それまでの約1ヶ月、日本に帰る手段は無い。
搭乗まで、残り55分
取りに戻る、という手は、この55分の中で消えていた。私はもう保安検査の内側にいて、財布は空港の外にあった。頭では分かっていても、私の体はまだ出口のほうを見ていた。そちらへ向かう足は、結局一歩も動かなかった。
飛行機を諦めて家に帰る。それが普通の判断かもしれない。でも、私はここまで準備してきた。ここで引き下がるわけにはいかなかった。
何か、何か決済できるものはないのか。そう思いながら、私はもう一度鞄の底を探った。
奥の小さなポケットから、プラスチックのカードが転がり出てきた。Freeeの法人用クレジットカードだった。経費精算用に入れてあったもので、財布の中身とは別に持ち歩いていたことを、この瞬間まで忘れていた。カードを見つけた瞬間だけ、頭の中の真っ白な部分に、色が戻った。
セブンイレブンで私は試した。一度は止められた。カードを見つめたまま少し待って、もう一度出した。8時59分、決済が通った。使える、と分かった瞬間、肩の力が少し抜けた。
10万円は通らず、出てきたのは3万円だった
現金も必要だった。住信SBIネット銀行のアプリを開いて、「アプリでATM」を選んだ。空港内のセブン銀行ATMへ走った。
とりあえず安心のために、10万円くらい引き出しておこう。そう思って操作したら、エラーが出た。画面には、理由の書かれていない断りの文字が出ているだけだった。
え、なんで。画面をもう一度確かめてから、私は金額を下げながら何度か試した。最終的に出てきたのは3万円だった。なぜ10万円がだめで3万円だったのかは、今も分からない。

02青い台の上に、旅券と紙幣が三枚だけ並んでいる。空港の機械が出したのはこの三枚で、財布のほうは手元に無い。 札の合計 30,000円
03気づいてから搭乗までに使えたのは、この55分だけだった。取りに戻る側の行は、どこにも作れなかった。
私は色々考えた挙句、まあなんとかなるだろうと突っ走った。
9時15分、搭乗が始まった。私はカード1枚と現金3万円とスマホだけを握って、タイ行きの便に乗った。
機内でゲームをしていたら、4時間が経っていた。wifiが無かったので、他にやることが何も無かった。
バンコクに着いた。14時23分、AIRALOでeSIMを買った。15時46分、Grabでタクシーを呼んだ。どちらも通った。
通ったのは、成田のホテルに置いてきた財布の中のカードだった。
プラスチックの板は日本にある。番号のほうは、前からスマホのアプリの中に入っていた。eSIMも、タクシーも、宿の予約も、番号だけで済む。私は、無くしたはずのカードで払い続けていた。
鞄の奥から出てきた法人カードは、その逆だった。こちらは実物が手元にあるので、店の端末に差せる。コンビニも、食事も、対面で払うほうは全部この1枚だった。
Grabを待つ列は、同じところに何十人も並んでいた。順番が来て、私はトンローの宿へ向かった。
20時12分、ホテルから返事が来た
財布の在り処に思い当たったのは、宿に着いてからだった。前の晩に泊まったホテルの連絡先を調べて、帰国は4月15日以降です、と書いて送った。
お財布はご来館いただける予定日(4月15頃)までフロントでお預かりさせていただきます。
20時12分に、そう返ってきた。あわせて、日本国内で使える連絡先を教えてほしい、とも書いてあった。この日から、私は日本にいない。
その日の最後に、トンローの「1人しゃぶ」という店ですき焼きを食べた。周りにいるのはタイ人と韓国人と中国人ばかりで、日本人はほとんどいなかった。
同じ夜、私は9日先の宿を押さえた。プールの見える部屋だった。財布が日本にあると分かった、その日のうちのことだった。

04低い日が、屋上と屋上のあいだから街に落ちている。この窓の高さは選んでいなくて、通された部屋に付いてきた。
値札の低いほうから買えなくなった
翌日の昼、セントラルワールドのSizzlerでステーキを食べた。同じモールのスターバックスに移って、この顛末の下書きを書いた。

05鉄の皿に、焼き目の付いた肉と、皮のまま裂いた芋と、銀の小鍋が載っている。熱いまま運ばれてきて、卓に着いてからも音が止まらない。
現金の3万円は、レートがいいと言われる両替所「Superrich」でタイバーツに換えた。5,985バーツ。3万円という数字を見ていたときより、5,985バーツという見慣れない単位に変わってからのほうが、心もとなかった。数え方が変わっただけで、額そのものは変わっていないはずなのに、そう感じた。
数十円の屋台の串焼きは買えないのに、数千円の高級すき焼きは余裕で食べられる。数十円の電車には乗れないのに、千円のタクシーには乗りまくれる。
値段の低いところでは何も買えず、高いところへ行けば何でも買えた。財布を無くす前は、逆の心配をすると思っていた。値段の低いものだけで何とかしのぐ側の心配を、勝手に想像していた。実際に起きたのは、その反対だった。買えないのはいつも、値段の低いほうからだった。

06石の天板に、大きさも縁の色もそろわない硬貨が散らばっている。どの窓口までなら受け取ってもらえるかは、出してみるまで分からない。
屋台と、現地の電車とバス。どれも現金でしか払えなかった。タイの銀行口座を持っている人なら、QRコードも使えた。5,985バーツは、そのためだけの元手になった。
4月11日、そのホテルの支払いが却下された
4月11日、成田のホテルの泊まり分の支払いが却下された。財布を預かってもらっている、そのホテルだった。
自動キャンセルになる前に払い直すように、とメールには書いてあった。9分後に、私は払い直した。今度は通った。
成田に置いてきたほうのカードに、日本を出てから戻るまでに届いた利用の通知を全部足すと、440,857円だった。現金と、鞄から出てきたほうのカードの分は、この中に入っていない。
1ヶ月のあいだ、いつかカードが止まるかもしれないと思っていた。実際に止まったのは、この1回だけだった。しかもそれは、財布が待っている場所の支払いだった。

07木の盆に、透いた茶と、造りの花と、巻いた布が一つずつ置いてある。頼む前に三つとも出てきて、始まるまでのあいだに飲むことになった。
4月15日、私は同じホテルに泊まった。財布は32日間、フロントで預かられていた。
カードがあればなんとかなるのは頭ではわかっている。でも、止まるのは怖い。いくつもあるリスクをヘッジできてるからこそ、普段なんとか生きていける。 それを実感した出来事だった。



