暮らしと移動 一 事故戦争が起きたので30万円払って脱出した話
2026年2月28日の16時16分、エレバンのホテルの部屋で、私はスマホを見ていた。そこには、衝撃的なニュースが書かれていた

01石造りの丸い建物が下から照らされて、正面の広場は濡れて明かりを映している。この前の晩まで、私はここをただ歩いていた。
「アメリカが、イランに戦争を起こした」 「イランがミサイルを、ドバイやサウジアラビアに飛ばしている」
私が乗るはずだったのは、翌日、3月1日のflydubai FZ8124便だった。エレバンを出てドバイ国際空港へ入り、4日滞在したのち、クアラルンプールにいく。現地を観光したり、5つ星ホテルで休暇を楽しんだりする。
しかし、戦争は、そんな夢のような生活を、台無しにした。アラブ首長国連邦が、空港を閉鎖した。私の旅程は、戦争によって瓦解した。
私は今、アルメニアの首都、エレバンにいる。アルメニアはイランの隣の国だ。このままでは、アルメニア上空も飛べなくなるかもしれない。
国営通信の発表も読んだ。私が知りたかった「いつ元に戻るのか」だけは、どこにも書かれていなかった。
ドバイは、ヨーロッパとアジアをつなぐ乗り継ぎの要である。そこが止まれば、そこを通るはずだった便がまとめて止まる。
航空会社からは、まだ何も届いていなかった。
優雅な下見旅行だったはずなのに
2月22日から、私は家を持たずに移動の途中にいた。日本の部屋は2月18日に引き払って、家財ごと処分している。
組んでいた並びは、エレバンからドバイ、クアラルンプール、東京を通ってバンコクまで。ドバイとクアラルンプールは、移住先をバンコクにして本当に正解だったかを確かめる下見として、日程のついでにねじ込んでいた。
動かせない日が2つあった。3月13日に日本で外せない仕事があり、その翌日の3月14日にタイへ移ることになっていた。
- もともとの経路 エレバン → ドバイ → クアラルンプール → 東京 → バンコク
もちろん、飛行機もホテルも、すでに予約済みだった。
私は、ここからの予定が全て消し飛び、目の前が真っ暗になった。
2つの選択肢
画面を見ていても状況は動かないので、私は食事をすることにした。パニックのときの私は問題を解けないが、落ち着いている私なら解ける。それだけは分かっていた。
BBQを食べ、ワインを飲みながら考えた。1時間もすると、選べるものは2つしかないと気づいた。
戦争が終わるまでアルメニアにいるか、今すぐヨーロッパ方面に脱出するか
2つ留まるか、出るか
02同じ大きさの枠が並んでいて、片方にだけ時刻が付いている。並べた時点ではどちらも同じ重さで、時刻が付いたのは決めた後だった。
留まる側の中身は、その場で見当がついた。1ヶ月ホテルに暮らして20万円ほど。ただしエレバンは寒く、外国人の多い区域の物価は日本と変わらない。
20時、私はこの出来事をnoteに書いて出した。悲観的に書くのはダサいので、「脱出か、アルメニア移住か」というポップな文章にした。
書き終えたころには、明日マドリードへ行くだけなのに閉じ込められたと書くのは大袈裟だよなあ、と思うようになっていた。この時点で私の悩みは、財布の痛みと、返金の請求のほうへ移っていた。
21時06分に、逃げ先の便を買った
21時06分、ポーランドの航空会社の会員登録が済んだ。エレバンを出てワルシャワで乗り継ぎ、マドリードへ抜ける便を取った。
その23分後、マドリードの宿に49,492円を払った。3泊ぶんだった。
マドリードに行く決め手は既に3回行ったことがあり、私にとって安心できる場所であることだった。
21時40分。私はいまの状況を2000字にまとめて生成AIに投げた。取った飛行機、今いる場所。どれだけ不安か。
AIは冷静に、こう言った。「あみさん、災難でしたね。しかし、ヨーロッパ方面の飛行機であれば、飛ぶ可能性が高いです。しかし、万が一その便も飛ばなかったときのために、出発する前にしっかりと寝て、体力を温存しておきましょう」
2時まで寝ることにした。
2時に起きて、30分で支度をして、タクシーで空港へ向かった。
私がそれを知ったのは、中継地であるワルシャワ行きの便のゲート前にきたあとだった。ゲート前には、飛行機が飛ばずに途方に暮れている大勢の観光客が彷徨っている。 私は、サンドイッチを食べながら、脱出の時を待ち望んでいた。
3日後、乗るはずだった2本目も消えた
3月1日午前5時30分、夜明け前。私が乗った飛行機は、離陸した。 窓の外には、レンガ作りの綺麗な景色が見える。
6時31分、ワルシャワの空港に着いた。空港でコーヒーを飲んだ時、私は危機は去ったんだ、ということを実感した。
14時半、マドリードに着いた。
3月3日の4時35分、今度はBatik Airからメールが来た。3月5日にドバイを4時に出てクアラルンプールへ15時30分に着くはずだったOD0714便が、いくつもの空域が閉じたために欠航になった、と書いてあった。
あの夜、もし飛行機を予約していなければ、私はどうなっていたのだろう?今頃、アルメニアで途方に暮れていたのだろうか?
3月5日の18時20分、クアラルンプールに着いた。私は、マドリードで3泊したのち、日本経由でクアラルンプールに行ったのだ。4日と22時間後のことだった。
その夜に数えた損は、約30万円だった。返金を待ってドバイ行きがまた飛ぶのを待つより、いま別の国へ飛んで自分の稼働を戻す。1週間か2週間で見れば、そのほうが得になると考えた。
国境をまたぐのに、これだけの額と、これだけの時間がかかる。いまの私には、それが苦い決断だった。
2、3年後、もっと軽々と国境を越えられるようになるといいな
この言葉が言っているのは、たぶん値段のことだけではない。同じことが起きたときに、これが決断ですらなくなるくらいの力を持っていたい、という話である。



