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エステに毎日通いたいとGeminiに言ったらバンコクに引っ越すことになった

2026年1月3日、深夜。毎週エステに行きたい。そのためなら悪魔に魂を売ってもいいとさえ思いながら、私はGeminiにその話を打ち込んでいた。人に相談する時間さえ惜しくて、いちばん早く返事が来る相手を選んだだけだった。相談する相手を間違えた自覚は、そのときは無かった。

01(イメージ)画面を開いていたときの机は、だいたいこういう感じだったと思う。

Geminiはいつもの冷静な調子で、こちらが1度も考えていなかった側の答えを返してきた。

あみさん、悪魔に魂を売る必要はありません。今すぐタイのバンコクに移住してください。あそこなら、日本の3分の1の価格で最高級のエステが受け放題です。魂を売るより、航空券を買う方が合理的ですよ

Geminiの返事を、私はもう一度読み返した。反論できる場所が、どこにも見当たらなかった。

その日のうちに、私は自分の部屋の中身を思い浮かべた。渋谷の道玄坂で、揃え終わってから3ヶ月しか経っていない部屋だった。ベッドも洗濯機もデスクもチェアも、まだ真新しいままだった。

買ったばかりのものを、買ったばかりの値段のまま思い出していく作業だった。合計は178万円になっていた。値段を思い出し終えても、決意のほうは1ミリも揺らがなかった。

一般に想像されるのは、物価か、気候か、仕事の都合だろう。しかし私は本当にエステのために出国を決意したのである。

エステのためだけに、部屋の解約を決めた

視野を広げるためでも、グローバルな経験を積むためでもない。エステとプールに行きたかっただけである。それでも、口だけでは終わらせなかった。決めた日のうちに、部屋を解約する算段のほうを先に進めていた。

引越し屋に見積もりを頼むと、最初の1社は14万円だった。もう1社に「他社は11万円だった」と伝えると、11万円になった。2社に声をかけただけで、3万円が動いた。値段は、聞き方ひとつで変わるものだった。

部屋を空ける前の数日は、都内のホテルに泊まっていた。2月15日は2泊で1泊1.8万円。日本にいると破産するな、と感じた。

2月18日、部屋が空になった

2月18日、業者は9時に到着した。8時半から9時半のあいだに来る予定だったので、ほぼそのままだった。

荷物はすべて業者が運び出した。買ってから3ヶ月しか経っていないものが、その中にかなり入っていた。ゴミ袋は10袋出た。ライフラインの解約は、2月10日に済ませていた。

178万円も家具家電に払ったのに、買ってから3ヶ月で全て処分することを決めた。これはもう決まったことだし、後悔はない。処分は面倒なので友人に依頼した。

10時10分、作業が終わった。何もない部屋に、時計の音だけが響いていた。私は両替のために買ったゆで卵を1人で食べた。殻を剥く音が、やけに大きく聞こえた。不思議と、何も感じなかった。

この時点で、行き先はまだ決まっていない。部屋が無いので、翌日から泊まる場所は毎回こちらで手配する。もし目的地に入れなかったら、戻る先も、荷物を置く場所も、日本には1つも残っていない。エステに行きたいという1行の裏で、実際に決めたのは行き先ではなく、戻らないことのほうだった。

半周する寄り道

エステのある街へ行くだけの話が、こうなった。経由地のアルメニア・エレバンで、乗るはずだった便が飛ばなくなった夜がある。そのときに何が起きたかは、別の記事に譲る。経由した街は、ワルシャワとマドリードと東京の3つ増えていた。目的地のドバイとは逆方向、地図の西側を大きく迂回する形になった。地図に線を引くと、目的地から遠ざかっていくようにしか見えない経路だった。エステに行くために動き出したはずなのに、私はエステから最も遠い場所ばかりを転々としていた。

クアラルンプールでは、5泊した

そこから東京の成田を経由して、3月5日にクアラルンプールへ入った。5泊した。1泊1.5万円のスイートルームを拠点に、気の向くままに働いた。フルキッチンも過剰なセキュリティも、私の暮らし方には要らないと、このとき分かった。

02クアラルンプールの寄り道で通りがかった、エステの入口。まだこの時点では、タイには着いていない。

働くことは中断しなかった。クアラルンプールでは開発中のアプリのコンセプトをまとめて、チームに下ろした。移動そのものは寄り道でも、仕事のほうは寄り道させなかった。

身一つ、MacBook一台。ホテル暮らしを続けているだけなのに、日本にいたときより自由だと感じていた。荷物が少ないぶん、迷うことも減っていた。渋谷の部屋に178万円分の家具家電を積み上げていたころの私からすると、正反対の暮らし方だった。

この寄り道の顛末を、私はクアラルンプールの宿のベッドに寝転んだまま書いていた。原稿の中身は「まだタイに着いていない」という1文だった。

気づけば地球を半周する壮大な寄り道をして、ようやくマレーシアにいた。その時点で、まだタイには着いていない。エステに行きたい、それだけの話が、地球儀を半分なぞる旅になっていた。

部屋を解約してから24日後

3月14日、荷物を抱えてバンコクに降り立った。部屋を解約した日から24日、Geminiに相談した日からは70日が経っていた。エステのある街に、私はようやく立っていた。

70日かけて着いた街のことを、私はもっと調べているつもりだった。それでも、詳しくなったのは、エステとホテルとビーチだけだった。友達によく弄られるのは、観光地や交通機関を聞かれたときに、いつも同じ返事をすることである。

タイ通なんてあるわけがない。行く場所はホテルとビーチとセントラルワールドだけで、移動はタクシー。だからガチでなんも知らないと思う。エステについても同じで、私が持っているのは体感だけである。相場や通い方や損得は知らない。気持ちがいいですね、眠くなるので15時に通うことが多いですね、そのくらいしか出てこない。目的地に着いてからも、詳しくなったものは増えなかった。

地球を半周してまで来た国のことを、私はほとんど調べていない。調べる前に、体のほうが先に慣れてしまった。1月3日の私に「着く前に地球を半周する」と教えても、たぶん驚かなかったと思う。それより「着いても、観光地の1つも覚えない」と教えるほうが、よほど正確な予言だった。

いくらか、と聞かれたので答えた

ある番組で、この移住の話をした。エステに毎日通っていると言ったところ、いくらなのかと聞かれた。

エステ1回
4,000円

私は聞かれた数字を答えただけで、それ以上のことは何も言っていない。番組が終わってから思った。普通の会社員からしたら、4000円でも割と高い。地球を半周してまで通う額として釣り合っているのかは、自分でもまだ判断がつかない。答えたのは金額だけで、地球を半周したことまでは、誰も聞いてこなかった。Geminiが言っていた「日本の3分の1」は、当たらずとも遠からずだった。

プールでぷかぷかするのが好きになった

プールに入りたい。 私が宿を選ぶときに選ぶ、重要な基準な1つだ。

半年が経ったいまも、プールとエステが理由だったという事実は変わっていない。

1月3日の時点では、これでうまくいくのかどうか、自分でも分からなかった。24日で部屋を空にして、70日かけてようやくエステの国に着いて、それでもタイのことはほとんど知らないままでいる。

戻る先も荷物を置く場所も日本に残らない、は本当にそうなった。ただし目的地に入れなかった日は1日も無く、3月14日からはバンコクにいる。1回4,000円のエステのために家財を全部捨てた、という交換は、いまのところ成立している。

1月3日の深夜にGeminiへ打ち込んでいた私は、地球を半周する自分をまだ知らない。知っていたのは、毎週エステに行きたい、という1行だけだった。次はプーケットに行きたい。

このとき外で起きていたことは 戦争が起きたので30万円払って脱出した話 に書いています。